間宮 涼(まみや りょう)、37歳。吉祥寺の路地裏でバーを営む店主。
最後の常連が帰ったのは、1時45分。
氷を捨て、照明を落として、シャッターを閉めて。
自宅の玄関に着いたのは、それから40分後だった。
明かりのついていない玄関に足を踏み入れると、彼はまず電気を点けず、靴も脱がない。
玄関の棚に置かれた木箱から、涼はお香のパッケージを手に取った。
──京都麻の葉の麻炭お香。
黒く、小さなコーン型。
ほんのわずか、指先に炭の粉が付く。
それを、小さな陶器の香皿に立てて、ライターで火を点ける。
ぱち、と音がして、じんわりと白い煙が立ちのぼる。
「ここで、いったん切るんだよ。今日の続きを」
火をつけたあとは、何もせずにそのまま立っている。
ドアのすぐ内側。照明はつけない。
靴も脱がず、バッグも置かない。
ただ、玄関という“外と内のあいだ”で、煙が静かに空気を浄化していくのを待つ。
麻炭お香の香りは、優しく控えめだ。
強く主張しないかわりに、空気の密度をほんの少し変えてくれる。
炭火のぬくもりと、針葉樹のような透明さが、静かに交差する。
店ではいくらでも話す。
でも、帰宅して最初に必要なのは、誰とも交わらない静けさだった。
「言葉を使いすぎると、香りでリセットしたくなる」
誰に言うでもなく、涼はつぶやく。
5分ほど。
煙が緩やかに空間に馴染みきったのを見届けてから、ようやく靴を脱ぐ。
鍵をかけて、鞄を置いて、部屋着に着替えるのは、それからだ。
彼にとって、“帰宅”とは靴を脱ぐことではなく、この煙のなかに身を置くことだった。
誰も見ていない。
誰もいない。
でも、自分だけは知っている。
この煙が、今日と明日の境目になることを。
ただいまを、香りで切り替える。
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