バーを開けたのに、誰も来ない夜がある。
間宮 涼(まみや りょう)、37歳。
吉祥寺の路地裏で、小さなオーセンティックバーを営んでいる。
カウンター7席。
看板なし。
宣伝もしていない。
それでも客はくる──はずだった。
雨。
平日の火曜。
SNSにも告知しなかった。
こういう夜は、常連もこない。
ひとりで氷を割り、グラスを拭く。
その音だけが、空間に吸い込まれていく。
間宮は、カウンターの奥から小さな木箱を取り出した。
中にあったのは、京都麻の葉の“檜精油”。
ヒノキ。
彼にとって、それは“酒を出さない夜”のための香りだった。
アロマストーンの上に、一滴。
すぐに、冷えた空気に針葉樹の香りが立つ。
湿気を含んだ木材のような、深い、整った匂い。
まるで、誰もいない森林にひとりいるような感覚。
「酒じゃないものを出す日が、あってもいいでしょ」
かつてそう言っていた常連のことを思い出す。
心がざらついた日は、ハイボールよりも、香りの方が効くのかもしれない。
涼にとって、檜精油は“自分に向けたカクテル”だ。
誰のためでもない。
言葉もいらない。
ただ空間を整えて、呼吸を通す。
香りが満ちてくると、音のないこの店も、少しだけ“生きている”ように思えた。
一人でいることに、言い訳がいらなくなる。
それがこの香りの、いちばんの効能かもしれない。
その夜は結局、誰もこなかった。
でも、電気を消す前に、涼はもう一滴、ヒノキを垂らした。
カクテルをつくらない夜の、もうひとつのルーティン。
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