東京のワンルーム。
六畳ひと間にテーブルと電子レンジ。
突っ張り棚の上に、買い置きのインスタント味噌汁が並んでいる。
田辺 芽衣(たなべ めい)、22歳。
春から始まった会社員生活は、想像よりずっと体力を使う。
帰宅しても、料理をする気力なんて湧かない。
まな板は買ったけれど、まだ一度も使っていない。
母の日が近づいていた。
実家の母には、毎年なにか贈っているけど──今年は、なんだか気持ちが違っていた。
上京してから、ちゃんと“ありがとう”を伝えていない。
いつも通り花を贈るだけじゃ、足りない気がしていた。
昼休み、たまたま寄ったビルの1階で、ポップアップの和雑貨店を見つけた。
小瓶に詰められた七味が何種類も並んでいて、芽衣の目に留まったのは「桜七味」と「炭七味」のセットだった。
手にとって、そっと桜七味のふたを開ける。
──甘く、やさしい。
花が湯気に溶けるみたいな、ふわっとした香り。
筍ごはんを炊いた春の食卓を思い出した。
「ほら、たけのこ、あんたが細かく刻んだんだよ」
そう言って、母が笑っていた。
炭七味の瓶を開けた瞬間には、ちがう記憶が蘇った。
夜、塾から帰ったあと、焦げ目のついた焼きおにぎりを母が黙って差し出してくれた。
香ばしい匂いが鼻に抜けた瞬間、「おなかすいてたの、バレてたんだな」と思った。
高価な贈り物じゃなくても、“あの人のごはんの記憶に、そっと寄り添うもの”なら、それでいいのかもしれない。
七味のセットを包んでもらい、駅前のカフェで便せんを買った。
「ありがとうって、今さらだけど」と書いて、「いつか一緒に、またあのおにぎり食べたいな」と結んだ。
数日後。母から、LINEじゃなくて手紙が届いた。
あんたが送ってくれた七味ね、桜のほうはお吸い物に入れて、炭のほうは鶏を焼いたら最高だった。
香りって、ほんとに思い出を引っ張ってくるのね。
芽衣は、返信の手紙を握ったまま、キッチンに立った。
豆腐とわかめの味噌汁を温めて、桜七味をひとふり。
ふわっと立ち上がった香りが、東京の部屋に、小さな春を咲かせた。
ごはんの記憶を、香りで贈る母の日。
→ 桜七味と炭七味のセットを見る
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