「香月さん、今夜は東京に戻りますか?」
乗務後の控え室、同僚の問いかけに頷いたあとで、 香月 結(こうづき ゆい)は、自分の声が少し小さく聞こえた気がした。
8時間のフライトは滞りなく終わった。
でも、機内の時間と地上の時間はいつもどこか、ねじれている。
部屋に戻ったのは23時すぎ。
窓を開けることもなく、カーテン越しにだけ外の空気を感じる。
照明を落としたまま、 バッグの奥から、小瓶を取り出す。
──檜精油。
京都麻の葉の茶色いガラスボトル。
ゆっくりと一滴、木のアロマストーンに垂らす。
ふわっと立ちのぼる、無駄のない静かな香り。
整った廊下、旅館の浴槽、早朝の杉林。
そんな光景が、音もなく脳裏に現れる。
香りは、檜。
それだけなのに、部屋の空気が、他人の言葉を受けつけなくなる。
結は、仕事が好きだ。
でも、どこかで「好きな自分」と「ほんとうの自分」を切り替える時間が必要だった。
この香りは、それをしてくれる。
誰にも気づかれず、誰にも見せずに。
「よくそんなに人と話せますね」 機内でそう言われることがある。
でも、ほんとうは誰よりも“音のない時間”を大事にしている。
檜の香りは、甘くない。
でも、一滴で部屋の境界線を引いてくれる。
「ここからは、わたしの時間」って。
手帳も閉じた。
スマホも充電に回した。
もう“香月結・客室乗務員”は、今日は終わり。
香りが薄れていくころ、ようやく深く息をつけた。
それだけで、もう十分だった。
この香りは、誰にも踏み込まれない静けさをくれる。
→ 檜精油を見る
▼ 客室乗務員、香月 結の「京都麻の葉 物語帖」
→ 炭七味 × 客室乗務員|一振りで、コンビニごはんが“帰国メシ”になる
→ 麻炭お香 × 客室乗務員|“香りのない香り”を、海の向こうへ届けたくて